奄美諸島のシャ‐マン(ユタ)は、迷信・邪教との一部の非難をよそに民衆の根強い支持を受けている。本書は長年にわたるつぶさな踏査を基礎に、民族学や宗教人類学、さらに民族精神医学などの諸学説をも視野にとり込み、近年ようやくその実態が解明されつつある各地の巫俗との比較をふまえ、奄美のシャ‐マニズムの社会的機能を明らかにする力作。奄美に育った著者にして初めて成しえた基層文化へのアプローチ。昭和52年9月30日‐山下欣一著? はしがき?奄美のユタの歴史は悲しい。それは、偏見と侮蔑(ぶべつ)と、はたまた島の人々の熱烈な信仰と支持との狭間で、次第に隠微な存在を取りながら、秘かにその生命を受け継いできているものの歴史である。奄美の人々は、教養の程度の如何にかかわらず、生活の実感としてユタの存在を理解している。それは、深く、島の人々の精神生活を規定する存在でもあるからである。筆者は、少年時代までを奄美で過ごしたが、その時代を回顧してみると、まさに、日常的にユタの世界に住んでいたといえよう。無意識のうちに、ユタの観点を通して日常生活を送り、霊魂を信じ、神を畏敬(いけい)する生活であったと思う。物心つくようになり、奄美の研究書を、二、三あたってみて、奄美の生活なかで、人々に一番身近かな存在であったユタが、単なる邪教迷信として扱われている程度で片付けられているのに、大いなる疑問を持ったのであった。従って、まず、奄美のユタの実態すなわちその存在形式を明らかにすべきだという視点から、ユタの成巫過程、呪術行為のニ点に焦点を当て、1956年以来、断続的に奄美諸島の調査を実施し、報告してきたのである。そして、これらのユタの調査において提起されてくる問題についても、その都度小論をにまとめ、機会を得て発表してきている。本書では、これらの報告、論考のなかから、奄美のユタの実態を明らかにすることに重点をおいてまとめることにした。いささかなりとも、神秘のベールに包まれていた奄美のユタの存在を明らかにすることが、急務だとの考え方からである。奄美の民間信仰の担い手は、ノロとユタであると指摘できる。しかし、ノロは、すでに形式的な存在として、その形骸を残留しているに過ぎない。ノロについては、すでに比較的多くの報告、論考かなされているのが現状である。これに反し、今なお活発に社会的機能を果しているユタについては、ニ、三の断片的報告がなされているのみである。このような現状からしても、第一に、奄美のユタをどのように、研究対象として位置づけるかを検討する必要があり、この場合、おなじ文化圏に属する沖縄諸島や先島諸島まで視点を拡大して考究すべきであるとの立場から、ノロとユタの問題等を提起してみることを試みてみたのである。第二は、奄美のユタの実態の報告である。第三には、奄美のユタの神観念、霊魂観、神がかり、動物供犠の問題があり、これらについても実態に即しながら検討してみたのであり、また問題提起として、今後の研究の進展へ足がかりを提供しようと試みてみたのである。そして、本書では、言及できなかった課題として、奄美のユタの祝詞の問題がある。これらについては、他日を期して、その位置づけ、検討を試みたいと考えている。奄美のユタの研究において、ユタが何故に、その生命を継承し、再生産されていくのかという疑問は、常につきまとうものである。いかに時代の進展があろうとも、この事実は、厳然として存在しているのである。
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