友だち   フォロー   フォロワー
0 0 1
奄美大島・ユタ神様
  鹿児島
神の島の白いシャ‐マン2
2011/04/07 08:00

今井大権現とは、奇怪な伝説に満ちた神のやしろである。そのみなもととは、壇ノ浦合戦に破れて喜界島へ落ちのびた平家の遺臣と安徳帝にさかのぼる。三位中将平資盛を征夷大将軍とする一族党三百余人が、まず喜界島に上陸。つづいてあとを追ってきた有盛、行盛の二将が合流し、すぐ目の前にある奄美大島を平定した。健仁二年(1202)、壇ノ浦合戦から十五年あまり後のことである。島の北部、現在の笠利町あたりは、源氏の追手が九州からやって来るというので〈魔西〉と呼ばれるようになった。そのため、ここの守備をまかされた平有盛は、現在の今井大権現のあたりに船見の砦(とりで)を築き、源氏の来襲にそなえたという。ところで、安徳帝の件だが、通常の伝説によれば、三種の神器とともに壇ノ浦の海底に身を投じたことになっている。だが、安木屋場のシャ‐マンが語る伝説は、まったく異なる。安徳帝は平家の落人とともに奄美にたどりつき、竜郷の貴人〈龍家〉の姫とされる安久里加那(あくりかな)を妃(きさき)とした。二人が住むことになった竜郷の一角は、〈安ら木屋の場所〉という意味から、安木屋場と呼ばれるようになった。安徳帝が姫とのあいだにもうけた一子は、今井権現夫と名のり、若大将として逞(たくま)しく育てあげられてのち、今井大権現のある山頂に館を築き、島の守備に一生を捧げた。父の安徳帝は平家再興の旗頭として硫黄島へ上陸した直後に永眠、三種の神器のうち、八たの鏡が、権現夫に継承されたしかし権現夫は父の死を悲しみ、八たの鏡を今井崎に埋めたという。奇妙な伝説である。安徳帝の落胤(らくいん)でもある今井権太夫は死して〈大権現〉と崇(あが)められ、平家が信仰した厳島弁財天もまた、奄美各地に根づくことになった。しかしさらに奇妙なのは、平家伝説の占領地である今井崎が、同時に、奄美における天孫君臨の地て信じられた点だろう。アマミコの名が、君臨した神アマミコ(天照大神にあたるともいう)に由来するように、今井大権現のあたりは古く降嶽神境(おたきみきよ)と呼ばれた。奄美のシャ‐マンのあいだでは、卜占(ぼくせん)の神として〈思金松〉なる神が信仰されているが、今井という名もこの〈思〉おもいの転化したものに思える。ついでにいうと、平家の哀れを主題とした巫女の祈願舞に、アマミコを指して〈重句阿麻みこ(おそらく思金松と同義)〉とあることから、今井とは天孫君臨したアマミコ自体を指す名だったのだろう。ついでに、思金松は方位や吉凶を占う呪術師であり、これがシャ‐マンたちの祖となった。今井崎は、まさしく、奄美シャ‐マンの故知ということになる。そしてわれわれがここで出会うのは、今井大権現の宮司でもある竜郷安木屋場出身の阿世知照信さんであった。当地では、シャ‐マンのことを、沖縄と同じく〈ユタ〉と呼ぶ。この語はユンタ〈歌うの意〉に由来するらしい。通常は女性がユタになるが、若干は男性の巫げきも存在する。今井崎の神がかった眺望に圧倒され、夕闇に包まれていく天孫君臨の峰を恍惚としながらみつめていると、運転手がまた声をかけた。「名瀬へ帰りましょう。暗くなるとケンムンが出るから」。ケンムン?

非表示の使い方について

以下の対応が可能です。

  • ミュート機能(指定したユーザーの投稿を常に非表示)

※ミュート機能により非表示となった投稿を完全に見えなくなるよう修正しました。これにより表示件数が少なく表示される場合がございますのでご了承ください。

マイページ メニュー