聞き慣れぬ名だった。奄美にはテンゴの神と称する神がいて、内地の天狗に相当するそうだが、このケンムンは河童にあたるかもしれない。ケンムンとは「木につくもの」あるいは「毛のあるもの」の意味で、怪しい猿に似た怪物である。山中にいて、山神につきしたがい、山で勝手に野宿する猟師を襲う。その襲い方がおもしろく、相撲を挑んでくるというのだ。力競べをしかけてくるあたりが、内地の河童を連想させる。しかもケンムンは大集団をなして山中に住む。奄美には九万九千九百九十九の神がおわすがそのうちの三分の一、つまり三万三千三百三十三はケンムンの仲間である。ケンムンは夜になると、人間だけがもっている澄火をほしがって、里近くに出没する。夜道で人を待ち伏せし、口から垂らす毒のよだれで目を抜いてから、火を盗みとる。近年は自転車が走りまわるようになったので、ヘッドライトを狙って襲いかかる。だから、この怪物に狙われたら、呪文をとなえながら窓をあけ、マッチを点して投げだしてやると、ケンムンはその火を持って消え去るという。ケンムンがなぜ火を必要とするのか?夜中の漁のためである。ケンムンの大好物は貝で、かれらは夜になると火を点して磯に出る。ところが磯には、ケンムンの天敵とされる〈八手魔体〉やって‐まるがいる。タコのことだ。タコに吸いつかれると、ケンムンは力が出せなくなる。その際、火は漁火の役割も果たすが、タコ除けの大切な武具となる。しかしケンムンは、本来山の神の眷属(けんぞく)であるにもかかわらず、火だけは点せない。それで人間の火を狙い、火を盗みとると、口から垂らすよだれに移す。このよだれは青い火を発するという。これを次々に仲間に口うつしするのだろう。昔、ある人がケンムンに火を譲ったら、あっという間に山じゅうに青い火が燃えあがったというから、すごい。「ケンムンに出会ったことがあるのですか?」。そう尋ねてみると運転手が答えた。「子どもの頃に一度ね。高い木の上から、友だちの声がするんで、よじ登っていたら、だれもいないんですよ。急にこわくなって、手がこわばり、上からまっさかさまに落ちました。下が藁屋根(わらやね)だったんで助かりましたが、あれはケンムンに呼ばれたんです」。かれは蒼ざめた 顔でささやいた。奄美には、まだ神や魔物がいきている。夜道は満月が美しかった。ケンムンにも出会うことなく名瀬に着いたときも、月は煌々と南の空を輝かせていた。それでふと気づいたのは、ユタの祭がこの満月にかかわっているという事実だった。かれらは自然を神として崇め、とりわけ太陽と月を天孫降臨時の二神になぞらえる。ユタは同時に陰陽道をベースとした占術をも使う。祭の吉日を占う。かれらは日知り=聖でもあって、吉凶のポイントが大陰と太陽の運行工合なのだ。夕食後、われわれはあすの祭の事前取材を兼ねて、名瀬の漁港わきにある阿世知家を訪ねた。玄関の上にある切妻屋根に、丸い鏡が飾ってあった。鬼瓦か、あるいは沖縄のシ‐サ‐と同じ魔除けだろう。中国南部の風水では、八卦を周囲に描きこんだ鏡を、障りのある方位へ掲げて、魔を撃退させる。その鏡をの下をくぐって、二階に通された。六畳間の正面に手づくりの祭壇があり、その前に 親神の阿世知さんが座っていた。よく日焼けした、いかにも奄美人らしい容貌の方である。昭和三年生まれというから、もう60を越えておられるわけだが、とてもそう見えない。若わかしい方であった。奄美神道今井大権現宮司であり、その神法を体現するシャ‐マンが、この人である。親神とは、神障りがあり巫病にかかった患者をユタにさせる導師、の意味である。
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